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富士山検定第1回2級試験

試験範囲を復習する21-40

いよいよ11月11日富士山検定1級と2級試験です。ここでは第一回2級試験の範囲に近い内容で瑞穂通信の質問を考えてみました。プルダウンを押すと回答が表示されます。問21-30は2級試験の問の範囲です。ここでの「問い」は2級試験の「問い」とは必ずしも一致しません。
穴埋め問題の復習としてチャレンジしてみてください。
問21-30 参考:公式テキスト95P

富士講の開祖は(室町時代後期〜江戸初期の山岳修行者)で、100回以上の富士登山や断食300日などの苦行を行い、富士の人穴洞窟で修行をつんだと言われている。

富士講が盛んになるのは角行から数えて六代目になる村上清光とが登場してからである。

村上清光は北口本宮富士浅間神社の本殿や参道を整備した。

は財産や富は永遠でなく、富士講の教えは厳しい修行によってのみ体得できると説いた。は享保18年に富士山7合目の烏帽子岩で断食入定し、即身仏となった。このの教えは江戸庶民の間に共感を呼び、江戸時代末期には江戸と呼ばれるほど盛んになった。

富士講は数人から数百人で講を構成し、登山経験などが豊かで、人格的にも優れた人がと呼ばれるリーダーとなり、に身を包み「、小山は晴天」などと唱えながら富士参詣登山を行った。

当時の富士参詣登山は講の中から代表が参加する代参形式で行われた。

実際の富士参詣登山ができない人のために、講の近くに富士山を模したを造り、そこに登ることで富士参詣登山と同じご利益があると言われ、江戸を中心に多くのが造られ、現在でもいくつかが残っている。

江戸時代の富士参詣登山で最も栄えた登山道は北口と呼ばれた登山道で、登山口となる北口本宮富士浅間神社の参道となる上吉田の町の入り口には金鳥居が作られ、富士参詣登山のために訪れた富士講の人たちを世話するの家が軒を連ねた。

富士講の修行は富士参詣登山以外に、富士山中腹を一周するお巡りや裾野に点在する河口湖などの湖を巡る巡りがあった。

 

問31-35 参考:公式テキスト86-87P

宝永山は新暦年12月16日に始まった噴火でできた。噴火は日間続いた。

宝永山はつの噴火口がある。宝永山の火山灰は遠くまで達した。

噴火口の直下にあった須走村(現小山町)では3m以上もの火山灰で埋まるほどの壊滅的な被害を被った。時の藩主大久保忠増は幕府に救済を申し入れ、一時的に幕府の直轄領となり、が災害対策責任者に任じられた。

は幕府のお助け米を幕府の意に反して救済米として配布するなど、被害復興に尽力したが、幕府の意に反した罪で罰せられて処刑されてしまった。現在、小山町にはを祀る神社が設けられ、偉業をたたえている。

直木賞作家のはこれらの経過を小説「」にまとめ発表している。


問36-40 参考:公式テキスト67-72P

富士山頂の気象観測は明治13年(1880年)夏メンデルホールによって行われた。明治25年(1895年)夫妻が冬季の観測に挑んだが健康を害し途中で断念した。

昭和5年(1930年)気象台技師、佐藤純一が冬季観測を実現。

昭和7年(1932年)山頂東安河原の観測所で観測が始まった。

昭和11年(1936年)には測候所を剣が峰に移設、昭和33年(1958年)狩野川台風、昭和34年(1959年)伊勢湾台風の大被害を受け、昭和39年(1964年)監視を主目的とするレーダードームが建設された。その後、人口衛星による気象観測が行われたことにより、1999年レーダードームは役目を終えるまでの35年間、職員が交代で登山道を通勤し、気象観測を行った。この間、過酷な環境の中で4名の職員が殉職し、慰霊碑が登山道入り口下に設けられている。富士山測候所への荷揚げはブルドーザーが使われたが、冬季はブルドーザーが使えず、によって機材や食料が荷揚げされた。この強力を取り上げた小説「」で新田次郎が直木賞を受賞した。

その後レーダードームはの「富士山レーダードーム館」に移設され、レーダー観測の見学施設として第二の役目を続けている。

富士山頂レーダードーム建設の物語はNHKのドキュメント映画プロジェクトXで紹介された。また、電気工学技術の偉業として2000年には八木アンテナについで2例目となるに認定された。

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