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私の吉田うどんのルーツを探る

今から15年ぐらい前になるだろうか、以前勤めていた東京の会社の先輩諸氏をさそって富士山五合目
を散策、その後、吉田うどんを食べてもらおうと企画して、二軒のうどん屋を選んだ。
一軒目は初日に、お客さんを招待するのに適当なお店として「楽天」に連れて行った。ここは、どちらかと
言うと蕎麦屋だが、うどんもやっている。店のつくりもしゃれた造りで、メインの席は座敷で、ふすまには蕎麦
屋独特の絵と書が画かれている。都会の客には喜ばれそうなお店だ。もちろん値段も良い値段で、普段
お昼に行くようなお店ではない。味も良いが、量も多い。蕎麦もうどんもこしがあってしっかりと味わえる。
値段が良いので、それ程混まないのも、接待するのには最適だ。東京から招いた先輩たちは、仕事柄全
国を旅しているので、食べ物の薀蓄はうるさい。案の定、この店は正解だった。すこぶる評判が良かった。
この「楽天」は吉田うどんの店に入れているが、観光客向けのお店なのだ。
二日目、今度は趣を変えて、本来の吉田うどん店の一つ美也樹(みやき)に連れて行った。現在の美也
樹は新築しているが、以前の美也樹(1985年創業)は入ると座敷にちゃぶ台のようなテーブルが並んだ
古い建物だった。入り口を入ると靴が無造作に脱ぎ捨てられていて、自分の靴を脱ぐ場所を見つけてどこ
そことなく上がりこまないと入れない店だった。相席どころか、テーブルいっぱいに座っているすぐ後ろにドカッと
座り込んで、食べ終わるのを待っていないと、いつまでたっても食べることさえできなかった。
注文は、お店のお姉さんに「肉大」「玉」とか言えば良かったと思う。お姉さんは、そこら辺のメモ用紙にすぐ
メモしていた。お姉さんは座り込んでる私たちの前を、食べ終わった人の食器を抱えて戻り、今度は、すぐに
熱々の湯気がどっと立ち上がる出来立てのうどんを運んでいた。お客がおあいそを催促すると、暗記したよう
に値段をはじいて○○円と伝えた。
注文してからうどんが運ばれてくるまで5分とかからない。時間で考えると立ち食い蕎麦屋のうどん屋版と言
える。こんな具合だから、混むことを予想して11時半以前に入ったが、店はいっぱいでせわしなかった。
肝心のうどんだが味はともかく、麺は評価が真っ二つだった。「うまかった」「吉田うどんの醍醐味を味わった」
という一方ひどかったのは「麺が生だった、とても食べれなかった」と言うものだった。
美也樹のうどんは吉田うどんとするとそれ程かたくないと思うが、讃岐のつるつるしたうどんや「みみう」の大阪
うどん、これも讃岐なのだが、それからすると、吉田うどん全体がかたいのである。しかも、太い。食べていて、
あごが痛くなるほどだと言うのが感想だった。おそらく美也樹以外の、吉田うどん店のどこに連れて行っても同
じような評価だろう。先輩諸氏は総じて富士山見学を喜んだが、吉田うどんについては、また行きたいとは
ならなかった。

吉田に生まれ、吉田でそだった私にとっては、毎日通っても飽きない味が吉田うどんだ。実際、吉田の人は、
本当にうどん好きだ。それも東京の先輩諸氏が固くてあごが疲れると評したうどんが好きなのだ。好評のお
店は、11時30分に行っても行列ができている。以前桜井に12時前に行った時など、麺が売り切れて閉
店していたほどだ。この時は、県外の人がいっしょになり、がっかりしていたので、確か、みさきうどんに案内し
て喜ばれた記憶がある。地元の私は、一軒がだめでも、他の店に行けるが、他県からわざわざ来たお客さん
は、がっかりだろう。かなりうどん屋さんが多いが、まとまってあるわけではないので、目当てのお店が閉店して
いるとがっかりだろう。今でこそ富士吉田市内の吉田うどん店は「吉田のうどん」の幟を上げているが昔は、
目印がなにもない店が多かったので、他県どころか、市外から来た人にも分からない店が多かった。そんな
地元の人向けの飾らないところも受けているようなのだが、今は吉田うどんもブームに乗って県外から大勢の
人がやってくるようになった。富士吉田市のうどん店が観光協会に加盟して、「吉田のうどん」の幟をたてて
から数年が経過した。最初の取り組みは2002年富士吉田市のうどん店30店が観光協会に加盟して、
幟を立てて宣伝を始めたことだろう。2003年(平成15年)には44店舗のスタンプラリーが行われている。

(2007年財団法人ふじよしだ観光振興サービスが吉田のうどんスタンプラリーを主催。58店参加)

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それ以前の吉田うどんはどうだったろうか。2000年吉田のうどんマップを富士吉田市観光課が発行した。
この時の店舗は39店だった。私がうどんマップを作ったのは昭和の時代だった。以前勤めていた精密機械
の会社(現在のシチズン精密)は富士急ハイランドの隣にある。社食もあったが、昼にうどん屋へ行くのが
楽しみだった。昼は12時から12時45分の45分だったと思う。この時間内で、出かけて、注文して、食べ
て戻らなければならない。会社を出てすぐのところにグリル赤坂がありここだと近いこともあり、余裕でもどれた。

うどん屋は富士吉田警察署前を入った「美也川」だった。ハイランド前の「さぬきや」はまだなかった。
(「さぬきや」は1980年頃開店して、人形が麺をこねるので、テレビ放映されたのを見た記憶がある。材料
もつくりも本場讃岐うどんの店だ。)職場の数人で示し合わせて行った。あらかじめ注文を書いたメモを持った
ものが、ベルとともに駐車場に向かい、先に向った。「美也川」は駐車場が少なかった。現在は建てかえられ
て新しくなっているが、当時は車を予定していなかったのだと思う。早く着いたものは、メモを渡し、席をとって
待った。ここは、カレーやコロッケがあった。うどんがメインなのだが、メニューは多かった。すぐに席は埋まり、雑
誌を読む間もなく、仲間が到着すると同時ぐらいに注文していたものが出来上がってきた。
すぐにかけこみ、時間内に戻った。西原の栄屋はあったのだろうか。記憶がない。現在の栄屋は現在の場所
に移転してきたが、もともと古いうどん屋で三代目だと言う。栄屋は線路向こうだったからだろうか、昭和の頃、
行った記憶がない。

富士見町の工場や、外注工場に出かけた時は、時間外でもOKだったので、東町(あづまちょう)の「田端」
やさくら通りの「三浦うどん」によった。この頃美也川以外では、富士吉田駅上を富士山の方に上った「羽田
うどん」が人気だった。「羽田うどん」は老夫婦が細々とやっている狭いうどん屋だったが、作る食数が少ないの
と、人気があったことが重なって12時には品切れの時があった。
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いつも「美也川」では、さすがに飽きてしまうので、時間内で行ける「うどん屋」を物色した。これらの店を地図
にして、次はどこに行こうと示し合わせる材料にした。店のメニューも写して、注文を取った。あるとき本町の
「Mうどん」でメモを取っていたら、店の女将さんからすごい剣幕で怒られた。「出て行ってくれ」と言わんばかり
の剣幕だった。お金を払って帰る時も、塩でもまかれそうな剣幕だった。それ以来、この店には行っていない。
うどん屋がポツポツ出始めた頃で、メニューを盗まれると思ったのだろう。私は、メニューを写すのにいちいち断
らない。これがいけなかったのだろう。スパイのように思われたのだろう。当時は、今のように携帯カメラもなけれ
ば、注文票も置いてなかった。書き写すしかなかったのだ。私は、取材が苦手なのだろう。今も、メニューを断
りなく写している。こんな動機で作ったのが私のうどん屋地図だった。当然、配布先は職場の仲間だけだった。
手元に残っているのは、昭和60年(1985年)のものだった。現在のサイトにアップしている吉田うどんの地図
のベースになっているものだ。これ以前で自分の記憶には「うどん」があまりでてこない。

子供の頃、多分昭和30年から40年頃はうどん屋へ行った記憶がない。うどん屋だけでなく、外食の記憶が
ない。自宅で、作ったか、生麺を買ってきて、作っていたと思う。私は、うどんより、すいとんが好きだった(たぶん)
ので、味噌汁に、小麦粉を玉子で溶き、スプーンで玉にして入れたものを食べた記憶がある。私の家は布団
屋で、両親とも夜遅くまで仕事をしていた。とてもうどんを作る余裕もなかったのかもしれない。このサイトを立ち
上げて、うどんのページを作成してから、昔のうどん屋さんの記録を掘り起こしはじめた。それによると戦前も吉
田にはうどん屋があった。
下吉田馬場にあった「新倉屋」、本町通りにあった「茂吉うどん」、大明見の四つ角にあった「しかさん」など、
現在とは異なる場所に盛っていたようだ。今残っている古いうどん屋さんは上吉田の「はなや」、旭町の「つる
や食堂」、西原の「栄屋」などだ。戦前は機屋が盛んで、その取引が、下吉田の東裏通りを中心に行われた。
大金を持った、機屋の旦那衆は西裏の飲み屋に集まった。こうした取引の合間に、食堂でうどんが出された
のが、現在の下吉田のうどんだったと思う。上吉田の「はなや」は御師の街にあるうどん屋だ。こちらのうどん屋
は下吉田より古く、富士登山者向けのうどん屋だったのだろう。江戸時代後期から明治、大正を経て昭和
初期まで吉田口登山道の宿場町として栄えた。宿のメニューとして「うどん」があった。しかし、こちらは東京など
県外者をお客としていたので、吉田うどんであったかどうかは不明だ。
この他に、吉田では、冠婚葬祭の時にうどんが出た。昔、昭和30年、40年頃は結婚式でもお葬式でも自宅
でやっていたので、庭で大釜を炊き、集まった人たちで、麺を作り、うどんを作った。だんだん、茹で麺を買ってくる
ようになったと思うが、どこの家にも麺棒とのし板があった。やがて、結婚式が外の式場で執り行われるようになり、
披露宴の最後にうどんが出るのは、今も変わらない。葬式が外の斎場で行われるようになったのは近年だ。ここ
でもうどんが最後に出る。なぜ冠婚葬祭にうどんなのかは分からないが、昔うどんは貴重品で、ご馳走だったようだ。
少し時間が取れたら、もう少し吉田うどんのルーツを探ってみたい。全国のうどんとも比較をしてみたいと思っている。

(完)
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