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富士山 いろいろな地図に見る 

表口登山道 五合目 今昔

→ポストカードに見る大宮口登山道今昔

江戸時代の表口登山道(富士登山案内図より) 平成の表口登山道(カシミールから作成)
富士登山道の一つに表口登山道と呼ばれる富士宮口登山道がある。昭和初期までは大宮口登山道と呼ばれていた登山道だが、この登山道は明治39年に大宮口新道として開設され、昭和45年には富士山スカイラインが開通し現在に引き継がれている。明治39年以前は村山浅間神社を経由する村山口登山道が表口登山道だった。村山口登山道は四合目で現在の富士宮口登山道新六合目に合流する。この変遷により、村山口登山道の五合目から上の合目は、富士宮口登山道の合目に変更されている。このように合目の呼称は時代によって変わることがある。2008年富士山検定の設問にこの表口登山道の江戸時代の五合目は現在の何合目に当たるかと言う趣旨の設問が出された。富士登山道の変遷を考えるとき面白い課題なので今月の話題として調べてみた。

江戸時代の表口登山道

上左は江戸時代(多分)の表口登山道の図と思える。手元にあった資料の「富士山表口村山元池西坊 富士宗四郎」の「富士登山道案内図」の一部だが、富士宗四郎氏は現代の人かもしれない。そうするとこの左上の図は現代に作成したか、復刻したものかもしれない。また、上に表示した図の外になるが元の図には鈴川から川成間の新道が画かれているので、復刻だとしても元の図は明治初期のものかも知れない。ただ、村山口登山道を画いたものなので、明治39年に開通した大宮口新道は画かれておらず、それより古い時代のものと考えられ、明治初期のものとしても江戸時代の登山道と同じと考えられる。そこで江戸時代の表口登山道の図としたものだとご了解いただきたい。

どうして江戸時代の登山道にこだわるのかと言うと、上に述べたように2008年富士山検定3級問題に「江戸時代の表口登山道五合目は現在の何合目か?」と言う趣旨の質問が出されたからだ。明治時代の登山道を画いたものは見つかったが、江戸時代のものがなかなか見つからなかった。上左の図は唯一江戸時代かと思わせるもので、図上に合目が画かれているものだったのだ。しかし、この図では、現在の登山道(上右図)とは正確に比較できない。そこで、ポイントとなるのがお中道だ。上左図で「中道」と記載されている道が登山道と交差している場所に「五合」(合は消えているためか読めない)の記載がある。お中道と表口登山道(村山口)との交点が良く分かる地図には、明治24年陸地測量部の二万分の一の地図がある。これを下に表示する。下左は表口登山道(村山口)四合目付近から山頂までの図だ。五合目付近を拡大したのが下右図だが、赤線で囲った部分に五合目と表示されていて、2604.2と標高が記されている。ここに交差して左右に点線が伸びているが、これがお中道だろう。この地図は明治24年のものだが、この時点では大宮新道がなく、江戸時代の村山口と同じと考えられる。つまり、上左図の詳しい地図が下左図だと考えて良いだろう。

左図中央下の登山道五合目付近拡大図→(赤丸は五合目表示周辺)
明治24陸地測量部2万分の1地図 表口登山道四合目付近から山頂 明治24年は村山口なので、お中道との交点が五合目になっている
表口登山道の合目はいつ変わったか
では、村山口登山道の合目はいつ頃から現在の合目に変更されたのだろうか。下に二つの地図を表示した。
下左は富士山地質図を表示したものだ。この地図には西湖から精進湖に向けて大正道が画かれているので大正時代以降のものと考えられる。この図の表口登山道を表示したのが下左図だが、五合目は上の明治24年陸地測量部の地図と同じだ。これによると大正時代には、まだ村山口登山道がメインで、江戸時代と同じ合目が使われていたと考えられる。もしくは、この地図を使った地質図の作者が古いものを使っていたとも考えられるが、明治39年開設の大宮新道は画かれていないし、合目も村山口登山道が表示されている。
一方、下右図は昭和2年発行の富士登山案内図だが、ここでは村山口登山道が消えて、大宮口登山道が表示されている。お中道との交点は六合目に変更されている。この図と酷似した大正7年発行の富士登山案内図(小山町立図書館蔵)が富士吉田市歴史民俗博物館発行の「富士登山案内図」(P15)に収録されているが、そこでも表口登山道は大宮口登山道が表示され、お中道との交点は六合目となっている。同じページに明治34年発行の「富士山明細図」があるが、そこでは村山口登山道が表示されていて、お中道との交点は五合目になっている。
以上の情報から考えると、表口登山道五合目は明治36年大宮口新道開設時に六合目と変更されたと考えられる。考えるに、村山口と比べて大宮口新道は距離が長く、五合目を手前に持ってきたことが変更の要因になっているのだろうか。いずれにしても合目は変更されるものだと意識して資料を眺めることが必要なことを勉強させられた。

追)昭和3年に発行された富士の研究N富士の地理と地質に大宮口登山道の合目と標高が記載されていた。(P366)著者によると情報源は大宮警察署発行の「富士案内」とでていた。これによると五合目は2604mと出ていた。まだ、村山口登山道五合目のままだった。何年発行の「富士案内」を参照したかは記載されていないので不明であるが、大正時代と推定できる。これから推定すると大正時代は新と旧の合目が混在して使われていた可能性がある。

富士山地質図大正頃から昭和初期か?まだ、明治24年の地図と同じ表示、お中道との交点が五合目と表示されている 富士登山案内昭和2年(大宮口登山道でお中道との交点が六合目になっている)