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富士山と人(2)

旧石器時代・縄文時代 人と富士山

縄文時代にもあった富士山と人とのかかわり

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 昭和から平成に変わって20年、ブラウン管テレビは薄型液晶テレビに変わり、黒電話は携帯電話に変わった。世界中の情報がインターネットでつながり、お金と時間さえかければ海外旅行も当たり前になっている。このように人の社会は20年でも大きく変化している。200年前は江戸時代だったので、変化は劇的である。これが2,000年前となると、日本は弥生時代となり、もとの様子が創造もつかない程大きな変化をしている。
まして今から12,000年前から始まった縄文時代になると文書による記録さえ残っていない過去なので、人の生活は少しのヒントから想像するしかないだろう。
はたして、このような過去に人は富士山とどのようにかかわり、現在まで時を重ねてきたのだろうか。
考古学者や火山学者の地道な研究によって少しずつヒントが積み重ねられている。

旧石器時代にあっただろう古富士山麓での生活

2008年発刊された山梨県史概説編によると縄文時代よりはるか昔、今から30,000年以上前の石器が都留市一杯窪(いっぱいくぼ)で発見されている。ここは石器の製作所跡ではないかと考えられているので、当時の人は石器を手に入れるために各地から現在の都留市を訪れていたと考えられている。西から一杯窪を訪れるとき、人は古富士の麓を通過したことだろう。また、東から一杯窪を訪れるとき古富士はランドマークとして存在感を示していたことだろう。

この時代の富士は現在より低い推定標高2700m程度の古富士で、爆発を繰り返し、大量の火山灰や溶岩などを噴出している。今から17,000年前には静岡側の岩淵溶岩流を、12,000年前には三島溶岩流を噴出している。山梨県鳴沢村別荘地の地層調査では地下300mまで溶岩、火山灰、火山礫、スコリアが何層にも重なっている様子が分かる。その内、地中200m以下の溶岩やスコリアは旧石器時代の噴火によるものだと考えられている。この時代の気候は氷河期で、人々は氷河に覆われた古富士山頂の噴煙を見ながら、時には噴火による噴煙や溶岩流、火砕流、火災泥流を避けながら生活していただろうと考えられる。

。歴史書によるとこの時代、旧石器時代は狩猟などにより食べ物を確保する生活のため人々は大型動物などの獲物を追って移動しながら生活していたと考えられている。県内でも、狩猟のための石器や礫が発掘されている。富士北麓ではこの時代の地層が古富士火山と新富士火山の噴煙や泥流、溶岩の下になり通常では発見されにくい環境となっている。
全国では地下を深く掘り下げた時などに偶然発見された石器や土器などにより、各地で旧石器人の痕跡が発見されているので、富士北麓でも今後開発が進むとより多くの遺跡が発見されると考えられる。

縄文早期 身近な遺跡が富士山麓の人を語る

気候が温暖になり、人々が定住生活を始める旧石器時代後期から縄文時代に入った12,000年前頃、河口湖の鵜の島(ウノシマ)や都留市宝地区(壁谷遺跡)で人々が生活していた痕跡が発見されている。
当時、鵜の島のある現在の河口湖は存在せず、古富士北麓には古せの海と呼ばれる湖があったと推定されているが、古せの海は現在の西湖、精進湖、本栖湖の場所に相当すると考えられるので、当時の鵜の島が現在のように湖に囲まれていたかどうかは定かでない。当時鵜の島は古富士の雪代(ユキシロ)や泥流を避けた高台の生活の場だったのだろうか、縄文時代初期の住居跡は多くが見晴らしの良い高台に発見されているように、鵜の島もその一ヶ所だったのかもしれない。富士山を見上げる鵜の島遺跡は、古富士から新富士が誕生する縄文時代、そしてその後弥生時代から中世にかけて人々が生活していた痕跡を残している。これは縄文時代以降富士を見上げる鵜の島で10,000年以上にわたって連綿と人々の生活が続いていたことを物語っている。

池の元遺跡周辺から見た富士富士吉田市北側にそびえる天上山を見上げた山際に発掘された池の元(いけのもと)遺跡(写真左:遺跡周辺から見た現在の富士)でも縄文時代早期から平安時代にかけて人々が生活した土器や住居跡が発見されている。
富士山は、縄文時代草創期を前後して、今から12,000年程前に梨ヶ原溶岩流を噴火をしている。また、縄文早期、およそ8000年程前には大月市まで流れた猿橋溶岩流も噴出している。このように、この時代の噴火は激しく、山頂から全方向に大量の溶岩を排出している。縄文草創期の人々は噴火の度に高くなる古富士から新富士への変化を見ながら生活していたのかもしれない。そして、大量の溶岩流が焼き尽くす様を見ながらなんとか静まってもらおうと祈ったことだろう。

激しい古富士の噴火活動はやがて縄文時代早期に入ると山頂噴火から側火山噴火に変化してくる。新富士火山の噴火活動が活発になって来る。9,000年程前忍野村の大臼、小臼が噴火、気候は氷河期が終焉し温暖に変わり、定住地を中心とした生活に変わってくる。竪穴式住居や土器が用いられるようになる。
縄文時代前期の初め、今から7,000年程前と思える都留市久保地遺跡では火山灰に埋もれている住居跡が発掘されている。

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