富士みずほ通信 今月の表紙目次-マル得情報写真館絵画館登山周遊温泉歳時記今昔
歴史と自然野鳥山野草木-なんでも館吉田うどんクイズ富士山検定考ショッピング(広告)

情報源過去総目次リンクご挨拶メールプライバシーポリシー


中の茶屋〜吉田胎内 周辺案内1

→周辺案内2

1 中の茶屋と吉田胎内(概要と自然)

1−1 中の茶屋概要

中の茶屋は富士山吉田口登山道の茶屋の一つで、富士北麓では唯一現在も続いている茶屋です。一時中断していたものを主人の坂田さんが平成6年に復活して営業しています。江戸時代から続いて15代目だそうです。「富士禅定ガイド」によると「吉田口登山道は、室町時代に入ると、関東各地から富士詣の道者が非常に多くなり「妙法寺記」明応九年(1500)の条には「富士道者」の言葉がある。更に、同年の「勝山記」によれば「富士へ道者参ル事無限」と記されているほどで、この道は各地からの道者で賑わった。 吉田口登山道は富士講6世の食行身禄が、信徒の登山本道を北口と定め、吉田御師宿坊を山もとの拠点とし、御山(富士山)登拝の富士講中が参集し,大いに賑わったところである。」と説明されています。

大月方面から富士山に向かうと猿橋宿、谷村宿と続き、小沼(現在の西桂町)に茶屋がありました。さらに富士山に向かい小明見を経て愛染を通り、下吉田から上吉田の宿に来ました。上吉田には御師の家がたくさんありますが、富士登山の人々を宿泊させたり、登山の案内をしたそうです。上吉田の宿を出発した登山者は富士山北口本宮浅間神社に詣で、諏訪ノ森を抜けて中の茶屋にひと休みしました。中の茶屋を過ぎると次は大石茶屋、馬返しとおおむね1里(4km)ごとに宿か茶屋があったようです。

江戸時代の富士登山は富士講と呼ばれる講者の登山で、白装束に身をかためた富士山信仰の登山でした。そんな茶屋の一つが中の茶屋です。

昭和の時代は坂田さんのおばあさんが営業していました。

現在は、その子供さんたちがそばをだして営業をしています。

御師:15世紀中ごろ富士への信仰が盛んになり始めると、登山の道者の清め、祓いをし、祈願・祈祷を行い、宿泊や登山の案内などの世話をし、登山の季節外には、富士山牛玉(ごおう)というお札を配り、祈祷をする人として御師がうまれたと考えられます。 富士山の登山口には御師の家があった。上吉田は御師の家が多く、現在でも営業はしていないが20軒近く残っている。御師の家は門構えに高い二本の石柱があり、奥に長く通路がある。現在も続いている富士講の人たちは夏の火祭の時期に御師の家に宿泊している。





富士講:富士山を信仰する団体。江戸時代は代表者が講社の積み立てたお金で富士山に詣でる登山をした。代表的なコースとして北口を登り、須走り口を下山、大山詣でをして江戸に戻った。江戸に808あったといわれるほど盛んだった。現在でも早稲田近くの富士講などいくつかは活動しているが、富士講と言うより保存会のような活動になっているものと思われる。富士吉田市が最近富士道行脚を企画し江戸東京から富士山まで歩く行事を行っている。(写真右:北口御師団が白装束で胎内祭に来た人に説明しているところ)






ページトップ↑

1−2 中の茶屋の周辺

中の茶屋は吉田口登山道の途中にありますが、現在はここから、左と右に分岐した道路があります。左は滝沢林道で舗装された立派な道路が北富士演習場の上を通り5合目佐藤小屋前まで通っています。(4合目の途中で車止めになっています)右は山道で富士山に向かって右後方に向かいます。この先は、吉田胎内方面と北麓公園に出ることができます。中の茶屋から富士山に向かって平行して2本の道路があります。左側は舗装してあり、大石茶屋、馬返しまで続いています。右側の道路は未舗装で、多少荒れていますが富士登山の季節には、車も気にならず木陰の中、野鳥のさえずりを楽しみながら登山が出来ることでしょう。これは昔、富士山自動車が走っていた名残の道路です。尚この道は富士山へ歩いて利用する登山道(トレッキングロード)として富士吉田市が整備しました。

富士山自動車:昭和2年設立、昭和4年浅間神社裏から大石茶屋まで自動車で登山者を搬送した。後に、富士吉田駅から馬返しまで登山バスとして運行した。(参考:富士吉田史誌資料編第六巻848ページ)現在は廃業し道路跡だけが残っているが、現在この場所は山梨県の所有地である。

中の茶屋の前には多くの石碑が建てられています。これらは、富士講の人々が寄進したもので、各講社のマークが彫られています。現在でも富士講の一部は中の茶屋を通って吉田口を登山します。しかし、富士講全体が衰退したことと、昭和39年に開通したスバルライン経由で直接五合目に向かう旅行者が増えたため、ここを通る登山者は減少しています。その為にこれらの石碑も富士講の盛んな時期(江戸後期から大正時代)のものがほとんどだと考えられます。

ページトップ↑

1−3 中の茶屋の自然

中の茶屋は富士北麓の代表的な場所の一つです。山梨県富士吉田市にあり、東経136度46分、北緯35度26分標高1100mに位置します。土地は火山土壌で富士吉田市内の大半と中の茶屋周辺はほとんど数十万年前の子御岳火山の噴火による砂礫層ですが、中の茶屋北側には中の茶屋溶岩流があります。

中の茶屋溶岩流:弥生中期(平成10年1998年から)2000年ぐらい前、中の茶屋上流1300mの側火山から流出した溶岩流(富士吉田史誌資料編第一巻362ページ)と考えられている。1971年津屋発表中期溶岩Nam

2 吉田胎内

2−1 吉田胎内の概要

吉田胎内は剣丸尾第二溶岩流の上にできた溶岩洞穴群で、明治時代に富士講の人が発見し、信仰の対象として多くの人が参詣していました。昭和4年に国の天然記念物に指定されました。信仰対象となった本穴と周囲に62個の溶岩樹形があります。本穴は横型樹形3本と縦穴樹形1本から構成されています。本穴入り口の横穴には溶岩棚があります。穴の内面には樹肌の模様が残されています。平成15年現在荒らされることを防止するために閉鎖されています。(左の写真は胎内祭2003/4/29に開放されている様子。現在は富士山北口御師団が管理している。)周囲の62個の溶岩樹形には山梨県教育庁と日本洞窟学会の作成したプレートが表示されています。しかし、位置が分かる案内は無いため全てを見ることは難しくなっています。スバルラインができた昭和39年以降吉田口からの登山者が減少し、吉田胎内を訪れる人も急激に減少。現在では訪れる人も少なくなっています。そのため、自然が荒らされないので神秘的な溶岩樹海を楽しむことができます。(右は62個の樹型の一つ、第54)

ページトップ↑

2−2 吉田胎内の自然

中の茶屋から北に入るとすぐに沢を渡りますが、この沢から100m程度が中の茶屋溶岩流の上を通っています。溶岩流を抜けると、砂礫の上にできた道を進み、途中の分岐を左に入り、沢を二つ越えると吉田胎内に着きます。吉田胎内の直前の沢(宮川上流)の北岸は切り立った溶岩壁になっていますが、これは西暦1000年頃の剣丸尾第二溶岩流によってできた溶岩です。剣丸尾第二溶岩流の生成時期についてはおおむね1000年頃と言うことは分かっていますが特定できていないのが実際です。国の天然記念物指定を受けた昭和4年頃、剣丸尾溶岩流は一つの流れと認識されていました。最近の色々な分析によって二つの異なる溶岩流であることが分かってきました。

剣丸尾第二溶岩流昭和初期以前には剣丸尾溶岩流として知られていた。(吉田胎内の国指定天然記念物の説明看板では864年(貞観6年)の溶岩流によってできたと説明有り。富士吉田史誌資料編第一巻374ページ(上杉陽、都留文大)によると西暦937の溶岩流だろうとある。2002年11月出版の静岡大小山真人責任編集「富士を知る」47ページの「図3/歴史時代に噴出した富士山の火口と噴出物分布の推定図」では1033?と記載されている。)溶岩組成などの違いから北側の第一溶岩流と南側の第二溶岩流と区別されている。第二溶岩流は富士山頂から500m北、高度3500m地点から噴出し、丸山の両側を流れ、吉田胎内地点を通過、北麓公園まで流れている。(富士吉田史誌資料編第一巻375ページ)溶岩流の下は天神峠スコリア群と土石流だと言われている。北麓公園からスバルライン方向に右折したところにある橋の北東側袂に説明の表札をつけた場所がある。

(下図:中の茶屋周辺の溶岩流:富士吉田景観野外博物ランドP101)



3 中の茶屋、吉田胎内周辺の野鳥や野草 つづきは→周辺案内2

本文では下の図書を参考にしました。

「富士吉田景観野外博物ランド」(無料配布物で現在絶版、富士吉田市図書館にあると思う)

「御山登り道」(富士吉田市教育委員会販売中、1400円)

「富士を知る」(集英社発行、本屋で販売中1900円)

以上

↑頁トップへ        富士北麓−瑞穂通信=富士みずほ通信 http://www.fjsan.net