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定方塊石の富士
(定方塊石:明治15年〜昭和41年、85才で没、岡山出身、生涯富士図・聖画を描く)
右のご神木が描かれた富士の絵を見たことがありますか。2001年新年の挨拶に使わせていただいた「塊石」の富士図です。この絵は河口村からの富士で、善応寺近くと思います。この絵をご覧になった塊石のお孫さん(栃木の定方様)からご連絡をいただき、塊石の生涯を追いかけることになりました。美術界では版画の世界で名前が残っています。塊石は岡山出身で雅号を3回変えています。最初の雅号が塊石で京都上加茂時代から昭和5−6年に東京文京区に定住する後まで使っていました。次は「耀慶」で東京定住後から、戦災で岡山県に住むまで、最後は「大塊」でこの頃は主に教会の絵を描いていました。現在も「塊石」の描いたキリスト像が岡山県の香登教会に飾られています。富士図はこの3回全ての雅号で描かれていますので、生涯富士図を描いた画家と言うことができます。「塊石」の実家(岡山)には、これらの富士図(肉筆)が残されていました。右の縦長の掛け軸四枚がその一部ですが、左の富士手前に山並みの見える富士図は三津海岸からの富士で「耀慶」時代の作品です。「しだれざくらと富士」「日出富士」「夏富士」の3点は「大塊」時代のものです。(注:「大塊」時代の作品名はこのサイト掲載のために瑞穂通信で仮につけたもので箱書きとは異なっています)

塊石から大塊に至る富士図を見ると、初期の絵は人物が入った風俗画が描かれ写実的な富士図ですが、耀慶の時代は人物が消え、山水画的な画風に変わっています。晩年の大塊時代の富士図は写実でなく、心の中の富士を描いたものになっています。これは東京から岡山へ戻ったので写実が少なくなったことと、人生経験が重なり精神的な視点からの描写が中心になったからでしょうか。晩年の富士図は落ち着きのある自信のあふれた描写になっています。
岡山の実家に一つの巻物にまとめられた塊石の習作がありました。その中に富士図はありませんが、香登を描いた1枚の絵がありました。(下)
のどかな大正頃の香登の風景画です。塊石の絵で好きな絵です。
85年を画家として富士山画に取り組んだ塊石の原点が見える絵です。
        河口湖からの富士(塊石:版画)       上:塊石、下左:キリスト像、右下:塊石の眠る墓
               → 塊石の富士図
          三津海岸(耀慶)          しだれざくらと富士(大塊)
        香登(大正頃か?)          日出富士(ひいずるふじ)(大塊)         夏富士(大塊)
○瑞穂通信表紙○瑞穂通信目次塊石の富士図
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